岩渕水門の建設責任者:青山士
土木(どぼく)工事は、多くの人々の努力と協力でできあがっていきますが、その中でも中心になって仕事を進める人がいます。たとえば、スエズ運河(うんが)をつくった人としては、レセップスの名前が全世界に知れわたっています。
でも、岩渕水門の工事について、全責任(ぜんせきにん)を負(お)っていた青山士(あおやまあきら)の名前はあまり知られていません。
青山士は、東京帝大土木工学科(とうきょうていだいどぼくこうがくか)を卒業すると、たった一人の日本人として、自費でパナマ運河の工事に参加しました。自分が人々のために、何をするべきかと考えて決めたことでした。
帰国した青山士は、内務省東京土木出張所(現在の建設省関東地方建設局)に入り、荒川放水路と岩渕水門の工事責任者に任命(にんめい)されました。そして、パナマでの貴重(きちょう)な体験を生かし、全力をあげて岩渕水門の工事に取りかかりました。まず、洪水を起こさない川の流れを研究しました。
当時の工事は、どこかの会社にたのむのではなく、役所が中心となって水門の設計(せっけい)から工事計画、人集めまですべて行っていました。そこで、青山士は、つねに工事現場に行って、作業員(さぎょういん)とともに働きました。それゆえに、親しまれ、尊敬(そんけい)されたのです。
特に水門の基礎(きそ)工事で青山士の力量(りきりょう)が発揮(はっき)されました。川底から20mの深さにコンクリートのわくを6こうめて、じょうぶにしなければならないと考えたのです。そのために、工事中に起こった関東大震災でもびくともしませんでした。
わたしたちは、このような人の努力をわすれてはいけません。