冬休み取り消し願い
明治5年、新暦採用令(しんれきさいようれい)が出されました。明治5年12月3日を6年1月1日とするという布告(ふこく)です。旧暦(きゅうれき)ばかりで生活してきた村の人々にとって、生活の面で大混乱(だいこんらん)でした。
始めのうちは正月を新暦でやる家、旧暦でやる家とまちまちでした。赤羽学校付近は旧暦でやる家が多く、雛祭り(ひなまつり)や端午の節句(たんごのせっく)も大体月遅れ(つきおくれ)でやっていました。
そこで、冬休みは12月25日から1月7日まで休むのが文部省(もんぶしょう)のきまりなのに、「当地方は、慣習(かんしゅう)でやむをえず2月になって本校の生徒がたくさん欠席するので、指導が困難(こんなん)である」という理由で、「正月3が日を除(のぞ)く外は授業をし、1月28日から2月7日までを月おくれの正月休みにしてくれ」という願書を出しています。(明治15、16、17年)
ほとんどの農家が汽車の開通した頃でもまだ新暦で正月をせず、もちつきも1月の末にやったそうです。