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最終更新日:2016年3月22日
おじいさんが、子どものころに荒川で泳いだ話をしてくれました。とても楽しかったそうです。でも、その荒川は、人々を苦しめる洪水(こうずい)を、くり返しひきおこして、大変だったことも話してくれました。
荒川は、自然に今のような川になったのではないのです。徳川幕府(とくがわばくふ)は、江戸を水害から守るために、川の流れを変える大工事をしています。それまで東京湾(わん)にそそいでいた利根川(とねがわ)を、銚子(ちょうし)の方へ流し、その支流だった荒川を、入間川(いるまがわ)と合流させて、現在のような流れにしました。
幕府は、各大名(だいみょう)があまり富(とみ)をたくわえないように、河川(かせん)の治水(ちすい)工事をわりあてました。しかし、あまりにも大工事だったので、大名も幕府もお金がたりなくなってしまいました。それでとうとう堤防(ていぼう)をつくることができませんでした。
明治43年、赤羽をはじめ東京の下町をだく流にまきこんだ記録的な洪水は、今まで見向きもしなかった明治政府に、大きな影響(えいきょう)をあたえました。5日間で700ミリの雨がふり、田畑や家は水びたしになりました。農作物(のうさくもつ)はぜんぶだめになり、人々の生活はいっぺんに苦しくなりました。
大正5年、洪水をなくすための、岩渕水門と荒川放水路(ほうすいろ)の工事がやっとスタートしました。
大正13年3月に工事が完成すると、人々はやっと洪水からにげるための小舟を家につるしておく生活から解放(かいほう)されました。水をふせぐために、高く土もりをした水塚(みづか)の上に家を建てる必要もなくなりました。
江戸時代以後、荒川は150回も洪水をくり返していましたが、岩渕水門ができてからは、洪水が1回もありません。赤くぬられていたため、赤水門として親しまれてきた岩渕水門ですが、古くなって増水(ぞうすい)したときの水圧(すいあつ)にたえきれなくなったので、300m下流に新水門がつくられました。青くぬられているため、青水門として親しまれています。
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