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最終更新日:2016年3月22日

浮間の編入とサクラソウ

 町として震災後(しんさいご)の大きな変化は、荒川改修(かいしゅう)工事の関係で、埼玉県から浮間が大正15年に岩淵町に編入(意味:組みこむこと)されたことです。
 浮間と言えば桜草で昔から有名でした。震災前までも、町の人々の浮間に対する親近感(しんきんかん、意味:身近なものとしてのしたしみの感じ)は、桜草を通じて大変深かったといえます。まだ駅がバス通りの上の方にあった時代ですが、春ともなると汽車のつくたびに東京方面から桜草を見物に人々がぞろぞろと下りてきて、工兵隊(こうへいたい)の前を通り、諏訪(すわ)神社から浮間の渡しのところまで来て、渡し船で浮間へ渡るのです。渡し船を待つ人で行列ができるほどでした。明治・大正とこうした光景(こうけい)はかわらず、浮間へ船がつくと、もう見渡すかぎり一面の桜草満開(まんかい)の原ですばらしかったそうです。
 村の人々が各所に縁台(えんだい、意味:屋外で使う、細長いこしかけ台。夕すずみなどに使う)を持ち出し、お茶をのみ、せんべい、だんごなどを食べる風景がやたらに見られたそうです。さすがにお花見とはちがい、飲めや歌えのどんちゃんさわぎはありませんでした。おとなしく桜草をながめ、帰りには桜草の鉢植えをみやげに持って帰る人が多かったそうです。要領(ようりょう)のいい人は赤羽駅で桜草の鉢植えを売って、もうけたという話です。
 関東大震災後も昭和3、4年頃は桜草を見に来る人がたくさんいました。しかし、桜草の期間が終わると、人々に全く関心がもたれない場所になってしまうのでした。
 それでも、工兵隊の手で浮間橋がかけられ、さらにそれが昭和9年に鉄橋になってから浮間がどんどん変わっていくのです。

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