ホーム > 文化・観光・スポーツ > 北区飛鳥山博物館 > 北区の歴史と文化財 > 歴史文化財リスト > 歴史文化財リスト神谷・東十条周辺地区 > 文化財説明板宮堀の渡船場跡
ここから本文です。
掲載開始日:
最終更新日:2015年4月23日
説明板の奥の川沿いには、大正時代末期から昭和35年(1960)にかけて宮堀の渡船場(とせんば)がありました。
この渡船場が設けられたのは、荒川放水路が完成したことによります。明治43年(1910)8月の東京大洪水を教訓として翌年から荒川の河川改修工事が始められ、大正13年(1924)6月に荒川放水路の全線が通水しました。その結果、足立区新田町の一帯は放水路と隅田川にはさまれて島のように孤立した地域となったため、北区と新田地域との間を往来する2つの渡船場が設置されました。1つは野新田(やしんでん)の渡船場で、もう1つが宮堀の渡船場です。新田地域からさらに先の足立区側へ赴(おもむ)くときは、鹿浜の渡船場を利用しました。
橋が少なく、鉄道や自動車が普及していない時代には、渡船は重要な交通機関でした。神谷や十条に住む人々は、宮堀の渡船場を使って、毎月21日の西新井の大師参りに出かけたり、鹿浜へ虫切りといってカンの虫治療に行ったりしました。また、桜の咲く季節には、荒川堤へ花見に行く人々で渡船場は賑わいました。
しかし、交通量の増大に対応して、昭和37年(1962)10月に新神谷橋の架設工事が着工され、同40年(1965)10月に片側車線が開通し、環状7号線が足立区側へ入ることとなりました。宮堀の渡船場は、新神谷橋の架橋によってその役目を終え、昭和35年の冬に廃止されました。
神谷1-3 北区立宮堀児童遊園