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掲載開始日:2024年10月2日
最終更新日:2024年10月2日
北区ウォーキングアプリ「あるきた」のイベント【あるきたコースチャレンジ】のコースの紹介です。
その他のコースはこちら(あるきたコースチャレンジのページへ)
距離5.5km
所要時間80分
北区でたどる紀州の今昔をテーマにした歴史探訪コースです。
東京を代表する名所である「飛鳥山公園」「旧古河庭園」「六義園」は、いずれも和歌山市に所縁のある地であることをご存じですか?
北区と和歌山市ってこんなに深い縁があったんだー。地元の人でも知らなかった話もチラホラ…。あなたの知らない北区を探しに歩いてみませんか?
真言宗豊山派寺院の清光寺は、医王山と号します。清光寺は、豊島清光が開墓となり創建、鎌倉期は大寺でしたが、太田道灌との戦いに敗れた豊島泰経の没落後、衰退、戦国時代末期の布川豊島氏一族豊島明重により再興したといいます。当寺に安置されている豊島清光像は江戸時代中期の作で、北区指定文化財です。
紀州神社は、元亨年中(1321-24)、紀州熊野の鈴木重尚が現在の北区豊島の地に拠点を置いた在地領主豊島左衛門清光に諮り、王子村に勧請したといいます。天正年中(1573-92)争論があり、小名(こな)宮ノ前に、更に小名馬場に遷座を繰り返した後、当地に遷座したといいます。
王子権現は、縁起によれば紀州熊野三所を勧請したもので、祭神は速玉之男命、伊弉册尊、事解之男命です。王子村は古くは岸村と称していましたが、同社が勧請されて王子村と改めたといわれています。勧請の年代は不詳ですが、康平年中(1058-65)源義家が奥州征伐(前9年の役)の時、ここで金輪仏頂の法を修せしめ、凱旋の日、甲冑を奉納したと縁起にあるので、それ以前の勧請であると推定されます。
八代将軍徳川吉宗の命によって享保5年(1720)から翌6年にかけて、飛鳥山に1,260本もの桜が植えられ、享保18年には桜が根付いて花を開かせるようになり、水茶屋が10ヶ所建てられ、江戸市民の行楽の場となりました。
元文2年(1737年)閏11月に、吉宗による事績を顕彰するための「飛鳥山碑」が建てられました。この碑文は江戸時代には飛鳥山のランドマークともなり、浮世絵などで芝山に桜と石碑を描けば飛鳥山を示しました。明治6年には東京で5か所ある太政官公園のひとつにも選ばれました。
現在も桜の季節になると、多くの花見客で飛鳥山公園は賑わいを見せています。
平塚神社の創立は、平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。
庭園はもと明治の元勲・陸奥宗光の別邸でしたが、彼の次男潤吉が足尾銅山で名高い財閥古河家の養子になり、以降この地は古河家の所有となりました。(この当時の建物は現存していません。) 武蔵野台地の高低差に富む地形を巧みに利用した、大正初期の庭園の原型を留める貴重なものです。戦後、一時進駐軍(英国将校)の管理に移り建物は荒廃しましたが、やがて国の所有となりました。地元の要望などを取り入れながら、東京都が国から無償で借り受け、一般公開されました。建物は創建当時に近い状態に復元修理され、現在に至っています。洋館と洋風庭園の設計者は、明治政府の「お雇い外国人」英国人ジョサイア・コンドル博士、日本庭園の作庭者は、京都の庭師「植治」こと七代目小川治兵衛です。
六義園は、五代将軍徳川綱吉の側用人である柳澤吉保が1702 年に築園した「回遊式築山泉水」の大名庭園です。吉保は和歌や儒学・仏教への造詣が深く、和歌の趣味を基調とする六義園の名は、中国の詩の「六義」にならった古今集の序にある和歌の分類に由来しています。江戸時代の大名庭園の中でも代表的なこの庭園には、和歌の浦や吹上浜、紀ノ川や藤代峠(藤白峠 海南市)、新玉松(和歌の浦鎮座の玉津島神社「衣通姫 尊」)など、庭園の随所に紀州の景勝が映し出され、また『万葉集』や『古今和歌集』より名勝を取り出し、八十八境を構成しています。
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