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最終更新日:2020年12月16日

12月16日 生徒の様子

今日は、昨日に引き続き、校内で作業をしていて、ほとんど授業を見ることができませんでした。

今日の給食・昼休み

今日の給食は、筑前煮・蒸しパン・にら玉スープ・菜飯でした。おいしかったです。

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昼休みは、校庭でみんな楽しそうに遊んでいます。

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1年生横浜校外学習頑張っています。

1年生横浜校外学習の事前学習新聞が廊下にきれいに掲示されています。調べ学習をみんな頑張っている様子がわかります。

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横浜校外学習 阿久津のワンポイントアドバイス

 160年ほど前まで、100軒程度のさびしい漁村だった横浜は、現在人口370万人で東京都をのぞき日本一の大都市です。いったい何があったのでしょう。そうですね、事前学習でも話した通り、ペリーの率いる黒船の来航が大きく横浜の未来を変えたのですね。日米和親条約・日米修好通商条を結び、1859年についに横浜も開港しました。
幕末から明治時代の横浜は、商店には英語の看板が並び、外国人が行き交いました。
横浜開港によって立ち退きを命じられた村人によって作られたまちが現在の元町です。
元町では、外国人たちから技術を学んだ職人たちが、パンや洋菓子、西洋料理を作りました。また、洋服や靴、バッグを扱うお店ができてきました。明治2年、医師で貿易商の早矢仕有的(はやしゆうてき)は、洋書の翻訳書の販売を横浜で始めました。これが現在の大型書店である「丸善」です。また、早矢仕有的はハヤシライスの生みの親でもあります。つまり、ハヤシライスは、丸善創業者のハヤシさんが発明した料理なのですね。今でも日本橋丸善書店3階のMARUZENcafeで元祖ハヤシライスを食べることができます。明治18年には、「明治屋」が創業しました。明治屋は、世界各国の食品・種類を扱う高級ストアーで現在東京の京橋に本店があります。明治43年には、不二家が日本初のシュークリームやエクレアを販売し大盛況。翌年銀座6丁目店が開業。明治21年、打木彦太郎が、日本人として初めてパン屋さん「ウチキパン」を開業しました。現在も元町に存在するお店です。また、海岸通りのホテルニューグランドは、ドリアの発祥の地です。グラタンは、フランスが発祥ですが、ドリアは、日本で生まれなのです。このように、横浜生まれのお店や食品が私たちの身近なところにたくさんあることが分かります。
元町から坂を登った山手は、明治・大正時代に横浜の外国人の住む華やかな洋館が建ち並び、まるでヨーロッパの街並みのような景観でした。イタリア・イギリス・フランス・アメリカなどの領事館があった山手では、イタリア山・フランス山・アメリカ山の地名が残り、洋館や教会・フェリス女学院や横浜雙葉学園などキリスト教に関係する中学・高校・大学がある等、異国情緒あふれる景観が今なお楽しめます。
石川町という駅名がありますが、ここは、名主の石川徳右衛門の屋敷があったので石川町となりました。この屋敷は、ペリーが上陸したときの接待所にも利用され、お茶やお菓子・お酒を出して、ペリーをもてなしたところで有名です。元町から山手に上がる坂(代官坂)の右手には、石川家が現存しています。
また、関内という駅名がありますが、当初江戸幕府は、長崎の出島のように一箇所に外国人を集めて関所のようなものを置いて管理しようとしました。そのために吉田橋に関門をおいて、関内・関外としました。その名残が、今でも関内の駅名に残っています。
中華街は、横浜以外にも、同時期に開港した神戸・長崎にもあります。では、いったいなぜ開港地には、中華街があるのでしょう?
開港当時、日本人は、西洋の言葉や習慣についての知識がほとんどありませんでした。一方、中国の広東・香港・上海の西洋商館で働いていた中国の人々は、西洋の言葉や習慣も理解しており、日本人とは漢字で筆談ができました。開港地には、西洋人と日本人との間に立ち、貿易の取引の現場で重要な役割を果たす中国の人々が多く集まりました。そうして居留地の一角に商店を開き、関帝廟や学校を建て、中華街を築いていったのです。
中華街を歩いていると、海岸通りや本町通り、日本大通りが横浜港の岸壁に平行か垂直に走っているのに対して、「中華街の道だけが斜めになっている」と言われますが、それは間違いです。なぜなら、開港前から中華街になる一角は、干拓して作られた「横浜新田」、つまり田んぼだったのです。すなわち、東西南北に細い水路が流れていました。この水路が現在の中華街の道なのです。つまり、他の通りの方が45度斜めになっているのです。
中華街には現在10基の牌楼(ばいろう)と呼ばれる門があります。東は清瀧の青色、西は白虎の白色、南は朱雀の赤色、北は玄武の黒色の門です。門の色さえ覚えておけば、東西南北の方角もしっかりわかることになりますね。ちなみに、聘珍楼(へいちんろう)は、明治20年創業の現存する最古の中国料理店です。
最後は横浜がなぜ開港地になったのかを書いておきます。「横浜」の横は、「横に長い浜」という意味です。アメリカは当初、「神奈川の宿を開港せよ」という要求を幕府に対して行っていました。しかし、もし神奈川を開港すると、東海道を通って江戸に攻め込まれる可能性があるので、神奈川の外れにある横浜を開港地に決めました。横浜はつり鐘の形をした入り海の干拓によってできた土地でした。その「横に長い浜」は、現在の山下町付近の海岸よりの部分です。
幕末・明治・大正・昭和初期へと移りゆくおもかげを眺めることができる町、それが横浜です。
1年生のみなさん、仲間と協力して、感染症対策を十分にとりながら横浜校外学習を成し遂げ、良い思い出を作ってください。
                     

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