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最終更新日:2016年3月21日

荒川の大洪水

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 私達の町で忘れてはならないのは、水害が多かったということです。江戸時代にも、寛保2年(1742)、安永9年(1780)、天明6年(1786)、弘化3年(1846)の大洪水は、今なお記録に残っています。
 明治になっても、18年、22年、29年、35年、40年、43年と大洪水があり、特に40年と43年の大洪水がすさまじいものでした。
 上の写真にあるように、43年の時には今の赤羽のバス通りは全部川のようになり、船をこいで往来しなければなりませんでした。

 このような洪水に備えて、志茂町や神谷などの荒川ぞいの農家では住居の所をふつうの土地よりも30cm~60cmほど高くしていました。また、多くの廊下の天井に船がつるしてあって、いざという時にはそれをおろしてこいで逃げるようにしていました。しかし、水害にあうと、飲み水に困り、稲付や赤羽まで船を出して水をもらいにこなければなりませんでした。どんなに用心しても洪水には勝てず、いつも収穫期にさんざん痛めつけられていました。
 そこで、政府が東京のこの大洪水を救うため、放水路を設けて、いざという時には荒川の水を水門でせきとめ、放水路へ流すという計画を立てたのです。こうして、岩淵水門工事が始まり、15年ほどかかって完成すると、人々は安心して住めるようになったのです。

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