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最終更新日:2016年3月21日

工兵隊の設置

 移住者(いじゅうしゃ)が赤羽に入りこむようになってきたのは、赤羽駅の誕生(たんじょう)が1つのきっかけです。また、明治20年、袋(ふくろ)の大地に工兵隊(こうへいたい)の兵舎(へいしゃ)ができたことがもう1つのきっかけでした。入隊、除隊(じょたい)が繰り返され、商人が兵営(へいえい)と結び付いて多少増加(ぞうか)し、除隊になった地方からの兵隊がそのまま土地にいついたりしたことが大きかったようです。
 この工兵隊の兵営(兵隊屋敷(やしき)と呼ばれていました)は、妙(みょう)なことで袋の大地に誕生しました。
 日比谷の今の内幸町(うちさいわいちょう)にあった東京府の建物は旧郡山柳沢藩邸(きゅうこおりやまやなぎさわはんてい)でしたが、腐(くさ)ってどうしようもなく、移転先(いてんさき)を探(さが)していました。すると、旧都庁(きゅうとちょう)のあった土佐(とさ)の山内藩邸(やまうちはんてい)の跡(あと)が第1候補(こうほ)になりました。ところが、ここは辰(たつ)の口の工兵隊が材料置き場に使っていました。府が相談すると、どこか代償(だいしょう)の土地を見つけてくれれば、そこへ工兵隊をうつして、材料置き場を辰の口にして、山内藩邸の跡を譲(ゆず)ってもよいということになりました。
 そこで、袋の台地を見つけ、地主との話し合いがうまくいって、府が買収して陸軍に渡したのです。

 8月に兵舎が建つと、9月に近衛の工兵隊が移ってきて、「兵隊さん」がぞくぞく入隊してくるようになりました。赤羽の大通りもこのため次第に開け、日清(にっしん)戦争から日露(にちろ)戦争にかけて町の発展という面では大変影響(えいきょう)が大きかったのです。この兵営のできたのがきっかけで、赤羽の西側台地一帯が、陸軍用地として占められるようになっていきました。
こうして赤羽の岩槻街道に面して商店が増加していきました。
 農村であった稲付、赤羽、下、袋、神谷、岩淵などが工兵隊のできたことで変わっていきました。兵営に納(おさ)める漬(つ)け物の材料として、梅干しや大根、らっきょうなどが求められたため、さかんに作られるようになったのです。

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