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最終更新日:2016年3月21日

明治末の祭礼

 鉄道が開通し、「兵隊屋敷(へいたいやしき)」ができてからは、どんどん商店も増え、呉服(ごふく)や小間物屋(こまものや)などができ、東京市内の流行の影響(えいきょう)を受けるようになっていきました。しかし、明治20年代から30年代頃には、まだ東京へ遊びに行くと言っても知れたもので、浅草か上野へ行くのがせいぜいだったということです。娯楽(ごらく)は少なく、神社の祭礼(さいれい)が最大の楽しみで、この祭礼を待ちこがれる気持ちは、とても今の人には想像(そうぞう)もできないほどだったといいます。御輿(みこし)をかつぐ家には、「白張」という白い衣装が配られ、それを着て御輿をかつぐのが最初の時の正式のかつぎ手とされていたようです。
 もちろん明治の末頃は祭礼の当日は小学校の授業は休みか、半日授業であったようで、それは赤羽小学校の校長先生の判断(はんだん)で全休、半休などが決まったようです。
 お神楽(かぐら)は、今ではもう祭礼でも見られなくなってきましたが、当時は各神社の氏子(うじこ)たちが金を出して、わざわざ秩父神楽(ちちぶかぐら)の連中(れんちゅう)を呼(よ)んできたそうです。いろいろな神楽を長時間やったとのことですが、能(のう)でいえば狂言(きょうげん)のようなおかめだのひょっとこだの狐(きつね)だのが出る神楽が人気があったそうです。
 飲むことも盛んで、各所に設けられた御神酒所(おみきじょ)には朝から酒を飲んでさわぐ人がいたそうです。

 秋の取り入れの終わったころなどに「何々芝居」といった幟(のぼり)を立てて小屋がけの芝居、ござの上で見る歌舞伎芝居(かぶきしばい)が何よりも楽しみだったそうです。

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