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最終更新日:2016年3月21日

明治終期の農家の人々の生活

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40年後

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明治の末頃までは農家では3食白米を食べる家ばかりではなく、麦や粟(あわ)などもいろいろ工夫して食べた家が多かったようです。岩槻街道の大通りの商店は別として、農家は朝から晩まで働きづくめでした。家のまわりの垣根には茶の樹を植えた家が多く、白い花の咲く頃はずいぶんきれいだったそうです。もちろん自家用で、お茶の葉をよるホイロなどのある家がかなりあったということです。また、自家製で機(はた)まで織(お)る農家もありました。
 大根のシーズンになると、何軒もの家が共同で車へ荷をつみあって、ちょうちんのあかりをたよりに夜中から市場へ運んでいったそうです。何台もの車で行くので、こわさなど忘れてしまうほどだったという話です。なぜ何台も行くのかというと、道が悪いので、車のわだちが道路にはまって動けなくなったとき、一人や二人ではとても動かせなかったからだそうです。大根出荷どきは、寝る時間もほとんどなかったそうです。「田植えから草取り、その間に野菜づくり、東京への出荷と、昔の村の人は、よく働いたものだ」と老人は語りました。

 この頃は、夏は、一歩野外に出ると、蚊柱(かばしら)といって、柱のようになって群(む)れている蚊が、口でも鼻でも容赦(ようしゃ)なく入ってきたそうです。冬は、霜柱(しもばしら)が朝日に輝(かがや)いて光るほど大きくて、それをざくざく踏(ふ)んで歩いたそうです。耳がちぎれるほど痛(いた)い寒さだったそうです。

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