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掲載開始日:2018年7月25日

最終更新日:2024年1月16日

平和を願う!軍用地を巡るコース【あるきたコースチャレンジ】

北区ウォーキングアプリ「あるきた」のイベント【あるきたコースチャレンジ】のコースの紹介です。
その他のコースはこちら(あるきたコースチャレンジのページへ)

距離5km
所要時間60分

「世界の恒久平和と永遠の繁栄を願い、北区が平和都市であること」を満喫できるコースです。北区は「軍都」と呼ばれてきた歴史があります。戦前、区の全面積のうち、ほぼ1割の土地が、軍用地として利用されてきました。火薬や兵器、軍服や軍靴を製造する工場や、橋や陣地をつくる工兵隊が置かれていました。帝都の防衛線である荒川の内側であり、水に恵まれ、鉄道等の交通の便が良かったことが、軍用地に適していたのです。戦後、軍用地は連合国軍の管理下に置かれ、解放と活用が北区の最重要課題の一つとなりました。現在、軍用地は、学校や病院、住宅等区民福祉向上のための施設に変化しました。ロシアによるウクライナの侵攻が続いています。改めて、平和について祈り、考え、行動する契機になれば幸いです。

コース詳細

1.十条駅南改札前

1910年(明治43年)、十条駅は、地元住民の強い要望や用地の寄付といった活発な働きかけがあり開業しました。1985年(昭和60年)に埼京線が開通するまでは、池袋-赤羽間の赤羽線という路線駅でした。戦前は、陸軍の従業員でにぎわいを見せていたようです。駅前の十条道踏切には、今でも踏切警手がおり、電車が来るたびに安全確認をして旗を振っています。この有人踏切はとても珍しい光景です。また、西口駅前では、令和6年度の完了に向けた再開発事業が進められ、再開発ビル建築工事が進められています。

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2.十条富士見中学校のレンガ塀

1904年(明治37年)に始まった日露戦争で、日本軍は弾丸不足に苦しみました。このため、十条台一帯に陸軍の弾丸工場を設置し、より多くの弾丸を製造しました。この工場は、第二次世界大戦期には、東京第一陸軍造兵廠と呼ばれていました。十条富士見中学校の埼京線側にあるレンガ塀は、この工場の敷地境界の塀を保存したものです。十条富士見中学校の改築に合わせて、平成23年度に耐震補強工事を行いました。なお、この塀には、葛飾区の金町煉瓦製造所で造られたレンガが含まれていることが、刻印から判明しました。(十条台1-9-33)

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3.自衛隊十条駐屯地の東京第一陸軍造兵廠旧254号棟

十条駐屯地は、戦後、連合国軍による接収を経て、1959年(昭和34年)、自衛隊に移管されました。約116,000平方メートルの敷地を有しています。一方、戦時期の東京第一陸軍造兵廠の敷地面積全体は、約330,000平方メートルにもなり、大規模な赤レンガ建築物が50棟以上あった広大なものでした。本駐屯地の正門や庁舎のエントランスにはレンガの一部が使用されています。公開緑地にある旧254号棟は、1918年(大正7年)に変圧所として建設された建物の一部を利用し造られたものです。北面には、白の碍子が埋め込まれ、受電施設の面影を見ることができます。(十条台1-5-70)

 


4.中央図書館の東京第一陸軍造兵廠旧275号棟

1919年(大正8年)、中央図書館の赤レンガ部分は、日本からロシアに弾丸を供給するために建設された弾丸鉛身場です。北区や足立区など隅田川周辺で製造された千葉煉瓦で製造したレンガが、使用されています。また、九州の八幡製鉄所で作られた柱も使われていました。この建物を保存・活用する形で、2008年(平成20年)に中央図書館がオープンしました。レンガの刻印や色の違い、積み方など見どころが満載です。図書の蔵書数は約43万冊を揃え、各設備も充実しています。また、「北区の部屋」を開設しており、“北区のことなら何でも分かる場所”を目指しています。(十条台1-2-5)

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5.中央公園文化センターと「ボイラー・煙突」

中央公園には、白い建物の中央公園文化センターがあります。この建物は、1930年(昭和5年)に兵器工場である陸軍造兵廠火工廠の本部事務所として建てられました。戦後、この一帯はアメリカ軍の施設として使用されるようになり、この建物も白く塗られたうえで、1971年(昭和46年)に日本へ用地返還されるまで、野戦病院(キャンプ王子)などさまざまな用途で使用されました。中央公園文化センターの横に、東京砲兵工廠時代に導入されたボイラーと煙突の一部が屋外展示されています。煙突は、1905年(明治38年)竣工で東京芝浦製作所製です。ボイラーはイギリス製です。(十条台1-2-1)

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6.憲兵の詰所

この地域は、東京第一陸軍造兵廠滝野川工場でした。この工場の入口付近に置かれていたのが、この憲兵の詰所です(諸説あります)。豊島地域から延びた軍用貨物線は、十条台の東京第一陸軍造兵廠内に入り、そこから東京第一陸軍造兵廠滝野川工場の方へと続いていました。憲兵は、軍の警察官のことで、人や貨物線の物資の動きを監視していました。なお、滝野川工場の敷地は、現在、王子総合高校や滝野川病院などに利用されています。(滝野川4-10先)

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7.四本木稲荷神社

四本木稲荷神社は、東京第一陸軍造兵廠滝野川工場の構内社でした。作業の安全を祈るための神社として、従業員の崇敬を集めていました。現在は、地域の人々に維持されており、境内には軍関係の遺跡とともに忠魂碑があります。この碑は、工場で亡くなった人々を弔うものです。火薬を製造するのに使用された圧磨盤という円形の石が割れたものを利用しています。碑と台を合わせると円になります。(滝野川3-61-1)

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8.滝野川三丁目公園(軍用地の標石)

北区にあった軍事施設の面積を合計すると区の面積のほぼ1割にもあたり、この割合は23区で最も高いものでした。歴史をみると、軍都化の流れは、日露戦争を契機に急激に進んでいきました。こうした軍施設の敷地を示す軍用地の標石は、現在でも区内各所で確認することができます。滝野川三丁目公園には、標石が3本展示されており、うち2本には「陸軍用地」の文字が刻まれています。(滝野川3-52)

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9.平和祈念像(北とぴあ前)

1990年(平成2年)に平和を願う区民のシンボルとして建立したものです。長崎市平和公園の「平和祈念像」の原型をもとに製作されました。作者である北区で最初の名誉区民で文化勲章受章者の彫刻家・北村西望氏(1884-1987)のご遺志とご遺族、長崎市をはじめ関係各位のご理解、ご協力により実現しました。氏は、1916年(大正5年)から1953年(昭和28年)まで、北区に在住し西ケ原のアトリエを拠点に多くの作品を制作しました。1951年(昭和26年)には、長崎市からの依頼で「平和祈念像」の原型の制作に着手しています。この意味では、長崎市にある平和祈念像の原型は、もともと北区で生まれていたといえます。なお、板橋区役所前にある平和祈念像は立像です。(王子1-11-1)

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マップ

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お問い合わせ

所属課室:健康部健康政策課健康増進係

〒114-8508 東京都北区王子本町1-15-22 北区役所第一庁舎1階

電話番号:03-3908-9068